Xジェンダーとして考えるアレコレ

Xジェンダーの大学生が紡ぐブログ

社会的性役割について、経験を交えて。

今回のテーマは、

今まで押し付けられてきた(と感じた)社会的性役割

です。

あくまでも個人の体験ですが、まあブログなので。

性役割という点で断っておくと自分は身体的性は女性なので、男性に対して言われるそれにはとても疎いです。もしかすると知識の足りなさゆえに言及に誤りがあったり、言及が極端に少なかったりするかもしれません。

それに、社会的性役割って、認識できないと普通に受け入れてスルーしがちです。だって、社会の一員たるもの、そのルールに沿った行いをすることに一々疑問を抱いて不平不満を言おうと斜に構えていられませんから。

その中でスルーを免れなかったものをとりあえず羅列します。

  • 祖父母の家で弟より家事手伝いをさせられることが多かった
  • 中学校の運動会で男子のトップは団長、女子のトップはチアリーダーと決まっていた
  • 高校の体育祭でも全く同様だった
  • 弟だけが、父の単身赴任の時「家を守らないと」と父や親戚に言われていた
  • 女の子なんだから足を閉じて座りなさい、言葉遣いに気をつけなさい…etc

 

ぱっと思いつく範囲ではこれくらいでしょうか。自分はまだ社会経験が豊富でないのでお酌が~とか、家を切り盛り~とかいったことはありません。しかしそのどれも最早現代において大人しく従われ、看過され続けて良いものではありません。

でも、思ったより数が少ないなぁと感じる自分もいます。差別関係はまだもう少しありますが、こと役割に限ると案外こんなもんでした。というか、”自分”に求められているのか、それとも”自分という女性”に求められているのか曖昧なものが正直多くて、それらを書くことは文章全体の正確性を保つためにできませんでした。

 

でも、上の5つは自分の中で特に大きく印象に残っているものです。それぞれについてもう少し具体的な説明と、自分がとった行動や、その後のことを書こうと思います。

 

 

  • 祖父母の家で弟より家事手伝いをさせられることが多かった

年末年始の帰省の時、弟だけ炬燵のなかでゲームをしているのに、自分だけそういうことを中断してお皿やお箸を運ぶよう言われていました。それ自体は簡単なことであるし、お手伝いは好きなのでよかったのですが、何故弟は言われないのか?と当時は思っていました。幼かったので男女という意識はほとんどありませんでしたが、お姉ちゃんだしな、という意識はありました。

自分が疑問を投げつけたのか、それとも時代の風が祖父母宅にも流れ着いたのか、今ではそんなことはありません。というか、何かを頼まれたときには姉弟二人で分散して行うよう自然と動いています。どちらかが特別何かを行うことはありません。分担したり、交互に担当したり、二人で上手くやっています。弟についてはまた、何かしらのテーマで記事が書けたらな、と思います。

 

 

  • 中学校の運動会で男子のトップは団長、女子のトップはチアリーダーと決まっていた
  • 高校の体育祭でも全く同様だった

いやもうこれは、その当時からおかしいと思っていました。しかも行事自体の中心は団長(男子)で、チアリーダー(女子)は補佐、応援という感じでした。

それでも毎年の伝統であるし、たった三年間在籍するだけの場所だし、実際に団長やチアリーダーになるのは三年生だったのでその役割を具体的に知ったのは3年になってからだったしで、気持ち悪いなと思った、という感想しかありません。ただ、まだやってんのかな、と少しばかり気にはなっています。この制度何なんでしょう、必要ありますかね?

 

 

  • 弟だけが、父の単身赴任の時「家を守らないと」と父や親戚に言われていた

これも当時から意味わからん、と思っていました。それまでお姉ちゃんとして生きてきた自分を差し置いて、より頼りない(と当時は思っていた)こいつに何故?と思いました。というか、実際家のことをやっていたのは母であるし、この頃腕っぷしでさえ自分の方が強かったので、本当に意味が解りませんでした。つまりこれって、弟が男子だからなんだよな、というか、まだ男性として未成熟でその特性でさえほとんど有していないのにわざわざ言われるのは男子の”見た目”だからだよな、と悲しくなりました。

自分が任されなかったことも悲しかったし、親や親戚が男女として差別的に個人のことを見ているという事実が自分にとって衝撃的でした。

自分は個人として見られてはいないのだ、自分の今までの行いは何だったのか、個人としての自分とは?と初めて小さなアイデンティティクライシスのような感情を抱きました。

まだ小学生でしたが、こういう経験も自分の性自認に関わっていたのかもしれません。経験→性自認の順なのか、性自認→経験なのかは判りませんが。

 

 

  • 女の子なんだから足を閉じて座りなさい、言葉遣いに気をつけなさい…etc

これはあるある集みたいなものです。個人の態度について、その性別らしさを求められることは、誰しも少なからず経験してるんじゃないかな、と思います。

足を閉じる系で一番印象に残っているのは中学校の卒業式ですね。女子は足を閉じて手を重ねて、男子は足を肩幅に、それぞれの膝の上に手を置く。しかも、男女で体育館の右と左に分かれていて、気持ち悪いなと思っていました。女子だけが何故苦痛を強いられているのか甚だ疑問で、その姿勢の練習までついてきて怒りすら感じていました。しかし、こういうことに反論する時間がありませんでした。自分は生徒会の一員として答辞を読むことになっていたので練習内容がみんなと違うことが多々あり、体育館の端っこで「かわいそうだなぁ」と思いながら立ち位置や式の進行の練習などをしていたのです。でも、これも今はどうなんだろうか、変わっているのだろうかと気になります。

そして、言葉遣いですが、もうどうしようもありませんよね。自分は自分なので。自分の言葉遣いについては狙ってやっていることもあるので改めて記事を書きたいと思います。覚えていれば、書き上げた後この記事にもリンクを貼ろうと思います。

あるあるの総括ですが、なんというか、こういうらしさを求めるの本当に止めて欲しいです。マナーや常識というものはあると思いますが、止めても差し支えない、マナーや常識が二の次にきても良いような場面は多々あると思います。

卒業式でのこともそうですが、特に中学校時代は男女差別的な納得のいかなかったことが多々あります。たった三年、されど三年、もう少し生徒会として何かできたのではないか、と今は思います。中学生の力は小さいし、行動力もまだそれほど無いので、実際には難しいと思いますが。

 

 

以上、自分が経験してきた性役割でした。

性役割って結構定義が難しいな、と思いました。まだ自分が幼い/若いためにお茶くみなど典型を経験してないということもありますが、しかしこういう性役割を植え付けていく芽のようなものがある。それらは性を意識する前から存在したり、或いは性への意識を目覚めさせるきっかけになったりして、性役割があたかも当然のことであるかのように個人の中に根付かせたりします。

自分がXジェンダーという性自認を自称しているのは、こういったことに順応できなかったからなのもあると思います。だから、こういう間違った、或いは不必要な男性観・女性観が無くなれば、ただ身体は女性ということで、内面はただの個人=”自分”として生きていけるのかもしれないません。

 

things-i-think.hatenablog.com

 

この記事でも書いていますが、自分はジェンダーというものが解っていません。社会が作るものなのか、それとも身体の性と同じように生まれもってくるものなのか…。或いは何かもっと複雑で、得体の知れない概念なのか。それを少しずつ明らかにしたい。自分の中でジェンダーという概念について体系を作りたい。そう思って自分の考えをまとめています。

 

因みに今では自分がおかしいと思ったらすぐに言えるようになったので、不条理な性差別や性役割の押し付けなどといったことに一々悩まされなくなりました。あとは社会そのものが短期間でかなり大きく変わってきているために押し付けそのものが減っているということもあるかと思いますが。もちろん、中学校→高校→大学と、環境が大きく変わっているというのもありますね。

 

 

 

 

これまた長いな。もう潔く諦めて長文系ブログでやっていこうかな…。

あと、この記事を最初に書き始めた頃に突然PCでローマ字入力ができなくなって、ひらがな入力になってしまいました。めっちゃ焦って、スマホで調べればいいのにそのままPCで「すらほもちまにみんななすんらのな」って打ち込みました。これ、「ro-majinyuryoku」って打ったときにひらがな入力モードで出てくる文字列なんですよ。そしたらやっぱり同じ現象で困った人たちがたくさんいて、解決方法がちゃんと出てきました。人間やることは同じなんだな、と思ったのでした。