Xジェンダーとして考えるアレコレ

Xジェンダーの大学生が紡ぐブログ

Aromanticの可能性

前回の記事から久方ぶりに書いています。

実は正確には下書きなんかがいくつかあるのですが、上手くまとまらずにそのまま寝かせすぎちゃって改めて確認して書くのに気力が必要になってしまいました。

また、更新が滞っている間にも記事を読んでくださる方がいて、PVが増えていくのは単純に嬉しかったです。

 

今回は前々回の記事

things-i-think.hatenablog.com

 

 に書いたことについてです。

因みに、このブログで一番アクセスが多い記事です。そういえば、タイトルがキャッチーな感じもします。

 

この記事に

「恋愛感情を(今のところ)もたないが性的欲求はもつ」

というようなことを長々と書きました。また、そういう人間に対する名称のようなものがなくて苦しんだ経験を綴りました。

 

でも、最近はAromanticという性的指向が言われているのですね。

ロマンティックに否定のaを付ける、音の響きもいい感じです。

少なくとも、”獣”よりは。

 

言葉の意味は改めて解説するほどのことではないですが、JobRainbowMAGAZINEの記事がわかりやすいです。恋愛の定義も、性的欲求の定義も人それぞれである、というところにまで触れています。

jobrainbow.jp

恋愛って難しいですね。真意はまた別の記事にしないと書ききれませんが、自分は定義の無いものにめっぽう弱いです。今までの記事も定義づけを重んじているのは、そういうことです。

性って何?ジェンダーって何?私は何?

簡単に定義付けができないから、こんなにも苦しんでいる。

でも今はその多様性が認められているから、息をするのが楽です。

名前を付けられると型にはまったみたいでちょっと窮屈だな、とかジレンマみたいなことを考えてしまいますが、単語の存在を知ることで自分と同じような性的指向をもつ人たちの存在を知ることができました。

同時に、こういう言い方は正直微妙ですが、自分の存在を社会的に認められたような気もしました。

 

これからも、今はまだ名前の無い性格や性質、趣味志向が、新しく名付けられていくことがある。そうすると、検索にかけやすくなったり、存在が広く認知されたり、自分という人間についての理解が深まったりといった感じで、色々な影響が出ると思う。

しかし、誤った認識やゆがんだ解釈などネガティブな影響も出てくることもあるでしょう。

ネガティブな影響を受けないように、或いは与えないように、少なくとも無関心でいないようにしたい。”自分”について考えることは多いですが、”自分以外”の人についても知ろうとしなければならないと思います。たった一人の自分以外の全ての人間はみな他人ですしね。

 

蛇足のような気もしますが、恋愛は知らずとも、他人を思いやる心や尊重する心はもっていると自負しています。

 

 

あんまり時間なくて勢いで打っちゃった。はやく記事書きたいなってずっと思ってたけどなかなか時間つくれなくて力不足を痛感。

社会的性役割について、経験を交えて。

今回のテーマは、

今まで押し付けられてきた(と感じた)社会的性役割

です。

あくまでも個人の体験ですが、まあブログなので。

性役割という点で断っておくと自分は身体的性は女性なので、男性に対して言われるそれにはとても疎いです。もしかすると知識の足りなさゆえに言及に誤りがあったり、言及が極端に少なかったりするかもしれません。

それに、社会的性役割って、認識できないと普通に受け入れてスルーしがちです。だって、社会の一員たるもの、そのルールに沿った行いをすることに一々疑問を抱いて不平不満を言おうと斜に構えていられませんから。

その中でスルーを免れなかったものをとりあえず羅列します。

  • 祖父母の家で弟より家事手伝いをさせられることが多かった
  • 中学校の運動会で男子のトップは団長、女子のトップはチアリーダーと決まっていた
  • 高校の体育祭でも全く同様だった
  • 弟だけが、父の単身赴任の時「家を守らないと」と父や親戚に言われていた
  • 女の子なんだから足を閉じて座りなさい、言葉遣いに気をつけなさい…etc

 

ぱっと思いつく範囲ではこれくらいでしょうか。自分はまだ社会経験が豊富でないのでお酌が~とか、家を切り盛り~とかいったことはありません。しかしそのどれも最早現代において大人しく従われ、看過され続けて良いものではありません。

でも、思ったより数が少ないなぁと感じる自分もいます。差別関係はまだもう少しありますが、こと役割に限ると案外こんなもんでした。というか、”自分”に求められているのか、それとも”自分という女性”に求められているのか曖昧なものが正直多くて、それらを書くことは文章全体の正確性を保つためにできませんでした。

 

でも、上の5つは自分の中で特に大きく印象に残っているものです。それぞれについてもう少し具体的な説明と、自分がとった行動や、その後のことを書こうと思います。

 

 

  • 祖父母の家で弟より家事手伝いをさせられることが多かった

年末年始の帰省の時、弟だけ炬燵のなかでゲームをしているのに、自分だけそういうことを中断してお皿やお箸を運ぶよう言われていました。それ自体は簡単なことであるし、お手伝いは好きなのでよかったのですが、何故弟は言われないのか?と当時は思っていました。幼かったので男女という意識はほとんどありませんでしたが、お姉ちゃんだしな、という意識はありました。

自分が疑問を投げつけたのか、それとも時代の風が祖父母宅にも流れ着いたのか、今ではそんなことはありません。というか、何かを頼まれたときには姉弟二人で分散して行うよう自然と動いています。どちらかが特別何かを行うことはありません。分担したり、交互に担当したり、二人で上手くやっています。弟についてはまた、何かしらのテーマで記事が書けたらな、と思います。

 

 

  • 中学校の運動会で男子のトップは団長、女子のトップはチアリーダーと決まっていた
  • 高校の体育祭でも全く同様だった

いやもうこれは、その当時からおかしいと思っていました。しかも行事自体の中心は団長(男子)で、チアリーダー(女子)は補佐、応援という感じでした。

それでも毎年の伝統であるし、たった三年間在籍するだけの場所だし、実際に団長やチアリーダーになるのは三年生だったのでその役割を具体的に知ったのは3年になってからだったしで、気持ち悪いなと思った、という感想しかありません。ただ、まだやってんのかな、と少しばかり気にはなっています。この制度何なんでしょう、必要ありますかね?

 

 

  • 弟だけが、父の単身赴任の時「家を守らないと」と父や親戚に言われていた

これも当時から意味わからん、と思っていました。それまでお姉ちゃんとして生きてきた自分を差し置いて、より頼りない(と当時は思っていた)こいつに何故?と思いました。というか、実際家のことをやっていたのは母であるし、この頃腕っぷしでさえ自分の方が強かったので、本当に意味が解りませんでした。つまりこれって、弟が男子だからなんだよな、というか、まだ男性として未成熟でその特性でさえほとんど有していないのにわざわざ言われるのは男子の”見た目”だからだよな、と悲しくなりました。

自分が任されなかったことも悲しかったし、親や親戚が男女として差別的に個人のことを見ているという事実が自分にとって衝撃的でした。

自分は個人として見られてはいないのだ、自分の今までの行いは何だったのか、個人としての自分とは?と初めて小さなアイデンティティクライシスのような感情を抱きました。

まだ小学生でしたが、こういう経験も自分の性自認に関わっていたのかもしれません。経験→性自認の順なのか、性自認→経験なのかは判りませんが。

 

 

  • 女の子なんだから足を閉じて座りなさい、言葉遣いに気をつけなさい…etc

これはあるある集みたいなものです。個人の態度について、その性別らしさを求められることは、誰しも少なからず経験してるんじゃないかな、と思います。

足を閉じる系で一番印象に残っているのは中学校の卒業式ですね。女子は足を閉じて手を重ねて、男子は足を肩幅に、それぞれの膝の上に手を置く。しかも、男女で体育館の右と左に分かれていて、気持ち悪いなと思っていました。女子だけが何故苦痛を強いられているのか甚だ疑問で、その姿勢の練習までついてきて怒りすら感じていました。しかし、こういうことに反論する時間がありませんでした。自分は生徒会の一員として答辞を読むことになっていたので練習内容がみんなと違うことが多々あり、体育館の端っこで「かわいそうだなぁ」と思いながら立ち位置や式の進行の練習などをしていたのです。でも、これも今はどうなんだろうか、変わっているのだろうかと気になります。

そして、言葉遣いですが、もうどうしようもありませんよね。自分は自分なので。自分の言葉遣いについては狙ってやっていることもあるので改めて記事を書きたいと思います。覚えていれば、書き上げた後この記事にもリンクを貼ろうと思います。

あるあるの総括ですが、なんというか、こういうらしさを求めるの本当に止めて欲しいです。マナーや常識というものはあると思いますが、止めても差し支えない、マナーや常識が二の次にきても良いような場面は多々あると思います。

卒業式でのこともそうですが、特に中学校時代は男女差別的な納得のいかなかったことが多々あります。たった三年、されど三年、もう少し生徒会として何かできたのではないか、と今は思います。中学生の力は小さいし、行動力もまだそれほど無いので、実際には難しいと思いますが。

 

 

以上、自分が経験してきた性役割でした。

性役割って結構定義が難しいな、と思いました。まだ自分が幼い/若いためにお茶くみなど典型を経験してないということもありますが、しかしこういう性役割を植え付けていく芽のようなものがある。それらは性を意識する前から存在したり、或いは性への意識を目覚めさせるきっかけになったりして、性役割があたかも当然のことであるかのように個人の中に根付かせたりします。

自分がXジェンダーという性自認を自称しているのは、こういったことに順応できなかったからなのもあると思います。だから、こういう間違った、或いは不必要な男性観・女性観が無くなれば、ただ身体は女性ということで、内面はただの個人=”自分”として生きていけるのかもしれないません。

 

things-i-think.hatenablog.com

 

この記事でも書いていますが、自分はジェンダーというものが解っていません。社会が作るものなのか、それとも身体の性と同じように生まれもってくるものなのか…。或いは何かもっと複雑で、得体の知れない概念なのか。それを少しずつ明らかにしたい。自分の中でジェンダーという概念について体系を作りたい。そう思って自分の考えをまとめています。

 

因みに今では自分がおかしいと思ったらすぐに言えるようになったので、不条理な性差別や性役割の押し付けなどといったことに一々悩まされなくなりました。あとは社会そのものが短期間でかなり大きく変わってきているために押し付けそのものが減っているということもあるかと思いますが。もちろん、中学校→高校→大学と、環境が大きく変わっているというのもありますね。

 

 

 

 

これまた長いな。もう潔く諦めて長文系ブログでやっていこうかな…。

あと、この記事を最初に書き始めた頃に突然PCでローマ字入力ができなくなって、ひらがな入力になってしまいました。めっちゃ焦って、スマホで調べればいいのにそのままPCで「すらほもちまにみんななすんらのな」って打ち込みました。これ、「ro-majinyuryoku」って打ったときにひらがな入力モードで出てくる文字列なんですよ。そしたらやっぱり同じ現象で困った人たちがたくさんいて、解決方法がちゃんと出てきました。人間やることは同じなんだな、と思ったのでした。

恋・愛への考え、性的接触への考え

5月20日の夜、NHKのノーナレという番組で「恋愛圏外」というアセクシャルの方にスポットを当てたドキュメンタリーを観たので、その感想と、そこから自分が考えたことを書きたいと思います。

 

しかし、前回の記事もこんな感じの感想文みたいなやつだったな…。

自分で書きたい話題が下書きとしていくつかあるものの、そういうのは書き上げるのにすごく時間がかかるし、こういう感想文は鮮度が命だし、と言い訳。

しかし不慣れなのもあり、この記事でさえすでに5日程度かかってしまっている…。

あと、自分は自分のジェンダー性的指向を正式には誰にもカミングアウトしていないので、あんまりこういう話題で他人に思ったことを述べられなくて、このブログをそういうことについてどんどん書き出して吐き出していくっていう場所にしたいと思ってるっていうのもあります。

 

 

さて、感想ですが、単純に興味深かったです。

番組は中村健さんというアセクシャルを自認しており、かつアセクシャル同士のイベントなども催していらっしゃる方へのインタビューを交えたドキュメンタリーでした。

また、ご本人のみではなく彼の同棲(番組内では予定)相手や友人へのインタビューもあり、”外”から見た彼の印象などを話されていました。

 

自分はアセクシャルではないのですが、パンセクシャルを自認している今の立場、さらに自分自身の性格として思ったことがいくつかあります。

「自分の性格」というのも性自認、或いは性的指向にいずれは分類されるのかもしれません。まだ自分がその分類を知らないだけか、まだ名前がついていないだけなのかもしれません。

 

 

まず、自分も愛とか恋とか解っていません。というか、解る日が来るのかも怪しいです。中村健さんは、西野カナの歌詞が理解できない」と仰っていましたが、全く同感です。

自分も以前ある方とお付き合いをさせていただいたことはありますが、結局同じ気持ちを持つことができなかったために、数か月で別れることになりました。別れを切り出したのは自分だったのですが、正直に、恋愛というのが解らなくて、貴方がくれる気持ちを返せないし、それが心苦しいと伝えました。

恋をするとはどういうことか、愛するとはどういうことか解っていないと分かっていたけれど、逃げてばかりもいられない。今思うと失礼ですが、そんな軽い気持ちでお付き合いを始めてしまいました。結果として相手を傷つけてしまったことを後悔しています。

それでも、お付き合いをしている間は楽しかったことも多かったですし、得たものもあります。一番大きいのは、自分は恋・愛が解っていないということでしたが。

また、相手の方との触れ合い自体に特に感情はありませんでした。相手が望むなら、喜ぶなら、という感じで、自分からは相手が喜ぶことをしようと計算しての行動はあれど、そういった類の行為そのものを望んではいませんでした。

 

 

この流れで次の話題、性的接触についての考えに移ります。

正直に書くと、自分が性的接触を望んでいないのかどうかわかりません。相手が喜ぶし、自分は失うものは何もないし、むしろ一時とはいえ興奮状態になれるということで、避ける理由がないと思っています。短絡的ではありますが、性的接触による興奮状態を望むという時点で、”性的欲求をもたない”というアセクシャルの定義から外れるのでないかと考えています。このパラグラフの最初の文章をより明確にすると、興奮状態が一時的に他のことを忘れられるがために好きなのであって、性的接触そのものを望んでいるわけではない可能性があるということです。

 

 

ここまで書いていて思ったのですが、アセクシャルって何でしょうか。

 自分は上記の通り性的な行為にあまり拒否感をもちません。もちろん赤の他人に触れられることは普通に気持ちが悪いですが、それは性的なものでなくても同様です。そうではなく、生理的に嫌悪を覚える相手でなければ、特に何の感情も感じることなく触れ、触れられるような気がします。いざ試してみないと実際のところはわかりませんが。

恋・愛が解らないので、性的な行為も「キスは粘膜どうしの接触と中村健さんが仰るのと同じように、自分にとっても特別な意味を持ちません。

しかし、上でも書いたように、わざわざ避けるほどの行為でもないと思っているので、相手が望む限りはむしろ触れていこうとするタイプです。

であれば、恋愛感情をもたず、また性的欲求をもたないアセクシャルではないのかもしれないけれど、かなりそれに近いような気がします。自分のこの考え方に名称があるのなら知りたいです。

実は、高校生の頃こういうタイプの分類名があるのか気になって検索したことがあるのですが、その時に同じような質問を知恵袋で見つけました。自分は回答としてそういう人たちの名称が書かれていることを期待してクリックしたのですが、回答は”恋愛ができないのに性的接触は憚らない、そんなのは獣だ”というものでした。この時の衝撃は自分にとって結構でかくて、また自分で検索をかける気には今はなれません。

 

自分が今はパンセクシャルを自認しているのは、そういった性的な行為に特別な意味を感じないがために誰とでもそういう行為ができるということからです。

また、恋愛はできないながらも好みのタイプがあることが、その内恋愛を理解する可能性なのではないかと思い、アセクシャルとは自称していません。

 

以上、しつこい様な書き方でしたが、また落ち着いて書き直したりしようと思います。

 

中村健さんアセクシャルとしての考えは共感できること、できないことが両方ありました。

この記事、本当は「ノーナレ「恋愛圏外」視聴後の感想」というタイトルで書こうと思っていたのですが、どんどん話がそれてしまって内容が違うものになってきちゃったので変えました。

途中からタイトルを変える必要があるほど内容が逸れてしまったということで、読みにくい文章になってしまったのではないかとかなり不安です。特に、自分が読み返したときにこの時の自分が考えていたことが理解できなければ書いた意味そのものが無くなってしまうので、そんな文章になっていないことを望みます…。

 

まさかの2500字超え…。始めたばっかりで加減が解ってないのはあるけどかなり長いなぁ。でも短すぎると浅くなってしまうし、かといって違う記事にするのも時間があるときにまとめて書いてるからどこで区切ればいいか難しいし。適切な文量を少しずつ見出したい。

長友さんのツイートによせて

今回は母の日にサッカー選手の長友佑都選手がされた2つのツイートの内容についてちょっと考えたことを書いてみたいと思います。

ブログ全体の主題からはそう遠くない話題になると思われます。しかし今回の記事は特に体系立てを目的としたものではなく、あくまで個人の意見の羅列に終始します。意見の不一致や、自分の文章のせいで誤解を生むなど不愉快な思いをされる方もいらっしゃるかもしれませんが、何卒ご容赦ください。

 

ツイート内容をリンクしていいのか正直わからないので、恐れながらも手打ちで失礼します。

何か問題があればご指摘くださると幸いです。

 

母の日。

父親になってみて、母親の偉大さにさらに気がつく。

世界中のお母さんに感謝。

あと俺のオカン、妻の母、そして妻の愛梨に心から感謝。

子育て環境をもっとよくしたいな。子育てし辛い事とか、もっとこうなってほしいとか、教えて欲しい。

自分に出来る事があれば行動に移したいな。

#母の日

僕は日本にいる頃、男はバリバリ働き、女性は家事や子育てをするという固定概念が正直あった。

海外に来て、彼らの家族への愛、言葉、時間の使い方を見て、自分の男としての概念が変わった。

家族のため働き、共に子育て、そして大きな愛を注ぐ。

これができる漢が日本男児

頑張ろう!

原文ママ

 

①については、長友さんの言いたいことは至極普通というか、今どきの父親感が出てると思います。②がメインなのでそちらだけでも良かったのですが、文脈の関係上、二つ続けてツイートされたからには切り取らない方がよいと思い、両方取り上げさせていただきました。

強いて言えば、教えて欲しいって言うより自分で気づけるよう行動した方が良いのかなと思うくらいですかね。揚げ足取りみたいですが。

 

さて、②についてですが、固定概念というのは固定観念の間違いということでいいのでしょうか。或いは意図的なのかもしれませんが、よくある間違いでもありますね。でもそれも添削したいのではないのでどうでもよいことです。

 

指摘したい点は4つ

  1. 男↔女性 の書き方
  2. 男としての概念 というもの
  3. 漢 という言葉
  4. 日本男児 という言葉

以上です。

 

順番に書いていきます。

 

まず1の男↔女性という書き方ですが、普通に違和感を抱きます。

誤解を恐れずに言うと、気持ち悪いです。

自分はXジェンダーという立場で文章を綴っているという前提のもと、完全なる個人的な意見ですが、男の反対は女ですし、女性の反対は男性でしょう。

自らが男性であるがためによく男性は男↔女性といった言い方をしますが、それはかなりの差別的な印象を抱きます。同じ人間なのに、そういう言い方することなくないですか?

しかし、大学で講義を受けているときも、50代以上の男性の講師の方は特に男↔女性を使うように感じます。また、体育講師も同様です。男女分けての世界であるスポーツの分野と、どこかの世代以上の男女観からくるのでしょうか。機会があれば本人になぜそういう言い方をするのか聞いてみたいです。

 

続いて2の男としての概念というものですが、これまた一体全体何のことなのでしょうか。人として、ではなく男として。しかも海外に行って経験したことで変わる概念。正直不思議です。長友さんの中にはきっと女としての概念もあるのでしょうね。

自分はこういうのが好きではないので、噛みつきたくなってしまいます。しかし個人の概念を否定することはできないので、取り上げるだけで。

 

3のという言葉についてですが、外国に行って漢の在り方を見出すという文脈もちょっと気になりました。が、やはり前時代的な香りを感じます。でも、好きな人は好きな漢字ですよね。

 

最後に4の日本男児という言葉ですが、日本男児…。

それこそ固定観念にまみれた言葉を何故この流れで使ったのか単純に理解できません。

 

あんまり1~4に分けた意味なくて悲しいですが、まとめると、「男」というものにこだわりすぎている気がしてしまうのです。

 

これは母の日のツイートであったはずなのに、最後は男の在り方を説くような内容になっています。父親として、或いは人として助け合うとかじゃなくて、男として、漢として、日本男児としてかくあるべきを説くのはおかしいじゃないですか。

さらに、そのツイートの端々から感じられる差別的な香り。今は固定観念を捨てた、みたいな文脈でその実、全然捨てきれていないのがどうしても引っかかってしまうのです。

しかも、なぜかこのツイートがいくつかのニュースサイトで日本人の心に響いた~などのニュアンスで書かれていて、なんだかもやもやしてしまってこんな記事を書いてしまいました。

 

ちょっと勢いで書き始めてしまった感はあって、2日に分けて書いているので今は恥ずかしいという気持ちが大きいです。

今更ながら一つ断っておくと、自分は長友選手のアンチだとかいうのではありません。そもそもサッカー自体に興味がないので、顔と名前一致してませんでした。

また、この記事も100%勢いだけで書いたのではなく、ちょいちょい似たような話しをされる方(1で触れた大学の講師の方など)が身近にいるので、今回のツイートを引用する形でいつも感じていたことを書きたいと思ったというのがありました。

一言でいうと、あんまり男だ女だ言う人は差別的で嫌いだな、という話でした。

こんなんで申し訳ないです。

 

自分は男とか女とかこだわる人が嫌いだけど、逆にこだわらない人を嫌う人もいるだろうな、と思う。お互いの理念だったり、行動基準だったり、拠り所だったりするものに関わってくるからかなりデリケートな話題だろうな。

性的マジョリティとマイノリティ

お久しぶりです。連休明けは何やかやと忙しかったですが、やっと落ち着いてきたかな、という感じです。

 

今回は性的マジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)について論じます。

 

定義については必要ないと思いますが、その対象について思うことがあります。

性的マジョリティって、中身が結構統一されていますよね。マジョリティなので当たり前ですが、所謂セックスとジェンダーが一致し、かつ異性愛者です。

対して性的マイノリティに含まれる人は多様性に富んでいます。セックスとジェンダーが不一致である人また明確なセックス・ジェンダーがない(両性もつ・どちらももたない)人、或いは恋愛・性愛・性的魅力を異性以外に感じる、また感じない人等々をまとめて性的マイノリティと呼んでいます。

このの部分は全く違うものであるにも関わらずひとまとめにされがちなのは、LGBTという言葉がもたらしたものでしょう。LGBTという単語の功罪は大きく、性的マイノリティの存在を世に広めたと同時に二つの違う性質をもつものを混同してしまいました。

LGBTとは、Lesbian、Gay、Bisexual、Transgenderの頭文字をとった単語です。

レズビアン(Lesbian)はジェンダーが女性で、性的指向が女性の方。

ゲイ(Gay)はジェンダーが男性で、性的指向が男性の方。

バイセクシャル(Bisexual)はジェンダーは不問で、性的指向が男女(無性や両性を含まない)両方にある方。

トランスジェンダー(Transgender)はセックスとジェンダーが一致しないが、手術は望まない方(コトバンク)。

前の三つは性的指向、最後のTはジェンダーの話となっているため、両者を同じくくりにすることで様々な間違った解釈を生んでしまうことになりました。

よくある間違いの例は、”オネェ言葉のゲイ”でしょうか。オネェ言葉、すなわち主に女性がするような言葉遣いをする、すなわち女性として振る舞うというのは個人のジェンダーの問題です。対してゲイというのは個人の性的指向です。よって、オネェ言葉のゲイは存在し得ますが、オネェ言葉を話す人がゲイとは限らないと同時に、ゲイの方が皆さんオネェ言葉を話されるわけではありません。

 

ここで、ジェンダー性的指向の込み入った話を話題がそれてはしまいますが、一応。ゲイという区分はその身体の性を問わないため、「身体もジェンダーも男性で性的指向も男性の方」と、「身体は女性or元女性でジェンダーは男性、かつ性的指向が男性」というタイプに分かれ、さらに言えば、前者または後者のどちらかしか性的対象ではないという性的指向や、そのどちらであっても性的対象になりうる、という性的指向もあります。そしてそういうことがレズビアンの方にはもちろん、その他にもあらゆる可能性があるため、性的指向というのはそのすそ野がとても広いです。

オジサンがタイプ、とか痩せている人が好みというような、性的マジョリティの方が言うところのタイプ(嗜好)とは、似て非なるものになります。

この話題はまた別の記事にして掘り下げたいと思います。

 

閑話休題

ジェンダー性的指向のどちらかはマジョリティ、他方がマイノリティである方、どちらもマイノリティという方、それぞれいらっしゃって当然です。

こうした間違いを生みやすいこと、またLGBTという言葉が4種類の性的マイノリティしか含まないことなどから現在ではあまり使われないようになっています。補足すると、こういった単語でくくられること自体を嫌ったり、その他理由によって当事者であってもLGBTという単語を嫌う場合もあります。

加えて、名を持たぬ性的マイノリティの方もいます。逆に名前がついているのは、ほんの一部なのかもしれません。

 

代わりに使われるようになったのがSOGI(ソジ)です。

SOGIはSexual Orientation and Gender Identityのからきた単語で、日本語では「性的指向と性同一性」と訳されます。この言葉により、性に関わる大きなトピックには二つ性質の違うものが含まれているということがより判りやすくなったと思います。この言葉はLGBTのように特定の人を指すものではなく、全てのヒトのもつ性的指向と性同一性という特徴の総称です。

この言葉には、性的マジョリティとか、マイノリティとかいった意味は含まれていないです。SOGIに関わらず、全ての人が平等に権利をもつ世の中になってほしいです。

なので、タイトルはマジョリティとマイノリティという風にしてありますが、自分はそんな人が多いとか少ないとかどうでもいいことだと思っています。誰だって、細かく分けていけば最終的にはたった一人の個人です。自分は自分以外の何物でもないのです。

それぞれが好きに生きさせてほしいだけなのに、マイノリティとか、権利が少ないとか、そういうことで生きづらさを感じたくないし、誰にも感じてほしくありません。まだマジョリティに都合のいい世界であることは明らかですが、今の状態が完成形であり得るはずがないです。セックスとかジェンダーとか性的指向とかで人をくくって偉そうに語るのではなく、ヒトとして人を見られる世界を、1億3000万人で、ひいては75憶人で作っていきたいですね。

 

ちょっと変な終わり方ですが、引っ込みがつかなくなてしまった感が否めません。

その内書き直すかも。

 

最後、細かく分けていけば個人にたどり着くみたいなこと書いてるとAkinatorを思い出しちゃって、調べたらネットで遊べた!

普通に当てられて悔しい。

東京レインボープライド2019

2019/4/27~5/6の間、東京では

「東京レインボープライド2019(TRP2019)」

という、セクシャルマイノリティの存在を世に広めよう、というイベントが開催されているようです。28日にはパレードもあったみたいですね。

パレードってあの有名なやつですかね。毎年ニュースになるやつ。

リンクを一応張り付けておきます。終わった頃に消すかも。

tokyorainbowpride.com

 

さて、パレード、自分は参加したことはないのですが、その理由は大きく三つあります。

  1. 未成年だから
  2. 一緒に参加するような仲間がいないから
  3. パレード自体が苦手だから

 

1については、成人した今となっては理由になりませんね。自分で現地まで行って、参加するだけの能力(金銭や安全面)は備わっていると思います。

 

2については、大学のセクマイサークルなり、その他(きちんとした)グループに入ったりという手段が、今となっては可能ですね。成人する前はやはり難しかったです。

 

3が肝心なのですが、自分は賑やかなのは苦手なんですよね。というか、得意だったらブログとかネットの世界に書かずにさっさとグループなりに所属して声高に主張してると思います。

あと、セクマイの中でもXジェンダーやパンセク以外の方について自分が大々的に行動するのは”なんだかなー”という気持ちになってしまうというのもあります。セクマイ同士の結託はマイノリティがマジョリティに気付いてもらうために必要だと思いますし、自分も同性婚にはがっつり賛成なので、もし署名とか求められたらやらせていただきます。しかし自らの性自認性的指向以外では、同じセクマイとはいっても正確には部外者です。下手に関わると後で苦しむのは自分なので、大きなきっかけがない限りはしばらく参加はしない気がします。

 

それに、あくまでも東京都内でのイベントですしね。いろいろ考えるところはあります。

 

こんなにフランクな記事書いたの初めてですね。一応ブログのテーマ的にTRPについて今の自分の気持ちを書いておこうと思って書いてみました。中身があるかといわれると微妙ですねぇ。

 

あと、ついに令和が明けましたね。自分は友達の部屋に泊まりに行っていて、ボケっとしてたら眠くなって、起きたら1日の0:17でした。ニュースで見る人達と自分との熱の差が激しいですね。でも退位礼正殿の儀は、youtubeで観ました。美しい日本語を聞くのが好きなので、天皇陛下のお言葉をネットで聞くことができて良かったです。

 

最後になりますが、前回の記事にて初めての★をいただきました。本当にありがたいです。始めたばかりなこともありますが、何分長文だし、個人的な意見の詰め合わせなので面白みにも欠け…最早自分の外部脳みそ的な感じですが、これからも精進して参ります。

 

なんか今日ニュースで連休後半とか言っててビビった…。まだやることいっぱいあるのに無駄な一日を重ねまくってる気がしてならんよ。

ジェンダーについてその定義から考える

前提として、自分の身体はほぼ間違いなく女性であって、その形態においても、機能においても大きな異常はないです。端的に言うと、セックスは完全に女性です。なので生物学的には単なる♀の一個体に過ぎないし、それについては特に異論はありません。

なので、前々回のブログ

things-i-think.hatenablog.com

に書いた、性って何だろう、という疑問はより具体的に言うと

ジェンダーって何だろう”

が相応しいです。

この記事は本当は前々回の記事の次の記事になる予定でした。しかし上手く文章がまとまらずワンクッション挟むことになり、前回の記事

things-i-think.hatenablog.com

で、先に”ジェンダーが何なのかわからない”ということについて触れてしまいました。

それでも、読みにくくはないと思うので特に支障はないはず…です。

また、断っておくと、勿論インターセクシャルの方に性別二元論を当てはめようとは思っていません。また、ヒト以外においてもすべての個体がその形態と機能において♂か♀かのどちらかに当てはまるとは考えていません。身体の性(セックス)についても考えることはありますが、何分自分が当事者ではないために、まだ自分の考えをまとめ、世に出す段階には到底ありません。しかし、いつかは書いてみたいと思っています。

 

前置きが長くなる癖が強すぎて、中々本題に切り出せないマンです。

 

ジェンダーって、そもそも日本語には無い概念ですよね。

というか、英語においてもセックスとあまり変わらずに生物学的に用いられている場面もかなり多いと思います。セックスって普段使うにはハードル高い単語な気もしますしね。

このブログでは、ジェンダーWikipediaの記事

ja.wikipedia.org

に沿って、

  1. 医学・生理学・性科学の分野における「性の自己意識・自己認知」のこと。性同一性。
  2. 社会科学の分野において、生物学的性に対する、「社会的・文化的に形成された性」のこと。男性性・女性性、男らしさ・女らしさ。

の2つの意味に絞って考えを深めていきたいと思います。

違う意味で使いたいときは判りやすいよう何かしらの導入をします。

Wikipediaを引用するのは、他の辞書よりシンプル、かつ分かりやすいと思われたためです。或いは、自分の論理展開に都合がよかったからなのかもしれません。他の定義についても自分が同じように自らの考えを説明できるかわかりません。もし他の定義において私の主張を覆す、または揺るがす可能性がある場合にはまた考察を重ねていきたいと思います。

 

まず、結論を言います。ここでいう結論とは、自分の考えの核であり、根幹となるものです。同時に、自分という存在についての認識でもあり得ます。

 

ジェンダーは2の意味において、その内容を流動させながら存在している。

1はかなり無理のある説明であり、2を前提としているためかなり曖昧な概念。

 

自分は、1の意味でいうところのジェンダーというものがその曖昧さ故に自分の中で上手く消化できず、自らのジェンダーを決めきれていません。かといって、クエスチョンという立場に甘んじず模索してみようと思い、記事を書いています。

 

自分の論展開を進めます。

2の社会的・文化的に形成された性については、現代ではその例を一つも思い浮かばない人はあまりいないと思います。”お淑やかといえば女性のあるべき姿だ”とか、”男は涙を見せるな”とか数え上げるときりがありません。余談ですが、昨今言われるジェンダーレスなんかは、この意味でジェンダーを使っていますね。したがって、セックスに関わらず、社会的・文化的にどちらでも着られる服装がこれにあたります。でも何だか最近は女性(ジェンダー)的な服装の男性(セックス)、男性(ジェンダー)的な服装の女性(セックス)を指すときに使われているような気がしますね。

 

2を踏まえて、1の「性の自己意識・自己認知」という説明について感じる違和感について説明します。

まず、そもそも性という単語は生物学的性にしか使えないので、性の自己認知は自らの身体を見るだけで完了するヒトがほとんどであるはずです。

それが何故できない場合がある(インターセクシャルの方を除いて)のか、というと社会的に求められる生物学的性に一致するよう求められる”らしさ”に対して違和感を抱くからでしょう。すなわち、セックスと”ジェンダー”を一致させることに困難を見出したときに初めて性について意識する、その意味においての「性の自己意識」。2のジェンダーが存在して初めて、1が存在するのです。だから、実のところ自分としてはジェンダーの意味として両方を含むのはちょっと無理があるかな、という気がしています。

また、自分は性同一性という言葉にも同じように違和感を持っています。ジェンダーがあるからそれとセックスが同一であるか、という疑問が生じるのです。

しかしジェンダーに身体を合わせようと手術をする人を否定しません。本人の意思に基づいて、本人がより生きやすい身体を手に入れることを誰が否定できるでしょうか。加えて、前回のブログでも言ったように、ジェンダーを一概に人格の一種だと断定できない、愛との関係もあります。女性として愛されたい人が女性の身体をもちたいと思うのは当然です。その逆もまた然り。その気持ちが何となくではあるものの理解できるために、ジェンダーという言葉、また性別違和(性同一性障害という病名は言い換えられることになりました)というものが存在することに納得がいきます。

因みに、性同一性障害は身体の性とジェンダーが反対である人にしか当てはめられませんでしたが、性別違和は身体の性とジェンダーとの間に違和感をもつ人全てに当てはまる概念です。

 

以上、ジェンダーについて、書けることを書いてみました。

 

※このブログ全体そうですが、異論は認めます。良ければコメントしてください。

 

上手く自分の考えていることが文章になっていないー!って感じてしまう。今まで一人で考えてるときはそういう上手い言葉にならない場合があっても、自分だけの世界だからいくらでもごまかして、ぼやかして納得できてたのに…。

めちゃくちゃ悔しいけど、そういう部分を見つけ出して体系を作ることが目的だから、この苦しさは無くてはならない。

 この一記事を書くのに2日、5時間程度は費やした。しかも寝かせてやっととりあえず読める程度にはなってるはず…。