Xジェンダーとして考えるアレコレ

Xジェンダーの大学生が紡ぐブログ

ジェンダーについてその定義から考える

前提として、自分の身体はほぼ間違いなく女性であって、その形態においても、機能においても大きな異常はないです。端的に言うと、セックスは完全に女性です。なので生物学的には単なる♀の一個体に過ぎないし、それについては特に異論はありません。

なので、前々回のブログ

things-i-think.hatenablog.com

に書いた、性って何だろう、という疑問はより具体的に言うと

ジェンダーって何だろう”

が相応しいです。

この記事は本当は前々回の記事の次の記事になる予定でした。しかし上手く文章がまとまらずワンクッション挟むことになり、前回の記事

things-i-think.hatenablog.com

で、先に”ジェンダーが何なのかわからない”ということについて触れてしまいました。

それでも、読みにくくはないと思うので特に支障はないはず…です。

また、断っておくと、勿論インターセクシャルの方に性別二元論を当てはめようとは思っていません。また、ヒト以外においてもすべての個体がその形態と機能において♂か♀かのどちらかに当てはまるとは考えていません。身体の性(セックス)についても考えることはありますが、何分自分が当事者ではないために、まだ自分の考えをまとめ、世に出す段階には到底ありません。しかし、いつかは書いてみたいと思っています。

 

前置きが長くなる癖が強すぎて、中々本題に切り出せないマンです。

 

ジェンダーって、そもそも日本語には無い概念ですよね。

というか、英語においてもセックスとあまり変わらずに生物学的に用いられている場面もかなり多いと思います。セックスって普段使うにはハードル高い単語な気もしますしね。

このブログでは、ジェンダーWikipediaの記事

ja.wikipedia.org

に沿って、

  1. 医学・生理学・性科学の分野における「性の自己意識・自己認知」のこと。性同一性。
  2. 社会科学の分野において、生物学的性に対する、「社会的・文化的に形成された性」のこと。男性性・女性性、男らしさ・女らしさ。

の2つの意味に絞って考えを深めていきたいと思います。

違う意味で使いたいときは判りやすいよう何かしらの導入をします。

Wikipediaを引用するのは、他の辞書よりシンプル、かつ分かりやすいと思われたためです。或いは、自分の論理展開に都合がよかったからなのかもしれません。他の定義についても自分が同じように自らの考えを説明できるかわかりません。もし他の定義において私の主張を覆す、または揺るがす可能性がある場合にはまた考察を重ねていきたいと思います。

 

まず、結論を言います。ここでいう結論とは、自分の考えの核であり、根幹となるものです。同時に、自分という存在についての認識でもあり得ます。

 

ジェンダーは2の意味において、その内容を流動させながら存在している。

1はかなり無理のある説明であり、2を前提としているためかなり曖昧な概念。

 

自分は、1の意味でいうところのジェンダーというものがその曖昧さ故に自分の中で上手く消化できず、自らのジェンダーを決めきれていません。かといって、クエスチョンという立場に甘んじず模索してみようと思い、記事を書いています。

 

自分の論展開を進めます。

2の社会的・文化的に形成された性については、現代ではその例を一つも思い浮かばない人はあまりいないと思います。”お淑やかといえば女性のあるべき姿だ”とか、”男は涙を見せるな”とか数え上げるときりがありません。余談ですが、昨今言われるジェンダーレスなんかは、この意味でジェンダーを使っていますね。したがって、セックスに関わらず、社会的・文化的にどちらでも着られる服装がこれにあたります。でも何だか最近は女性(ジェンダー)的な服装の男性(セックス)、男性(ジェンダー)的な服装の女性(セックス)を指すときに使われているような気がしますね。

 

2を踏まえて、1の「性の自己意識・自己認知」という説明について感じる違和感について説明します。

まず、そもそも性という単語は生物学的性にしか使えないので、性の自己認知は自らの身体を見るだけで完了するヒトがほとんどであるはずです。

それが何故できない場合がある(インターセクシャルの方を除いて)のか、というと社会的に求められる生物学的性に一致するよう求められる”らしさ”に対して違和感を抱くからでしょう。すなわち、セックスと”ジェンダー”を一致させることに困難を見出したときに初めて性について意識する、その意味においての「性の自己意識」。2のジェンダーが存在して初めて、1が存在するのです。だから、実のところ自分としてはジェンダーの意味として両方を含むのはちょっと無理があるかな、という気がしています。

また、自分は性同一性という言葉にも同じように違和感を持っています。ジェンダーがあるからそれとセックスが同一であるか、という疑問が生じるのです。

しかしジェンダーに身体を合わせようと手術をする人を否定しません。本人の意思に基づいて、本人がより生きやすい身体を手に入れることを誰が否定できるでしょうか。加えて、前回のブログでも言ったように、ジェンダーを一概に人格の一種だと断定できない、愛との関係もあります。女性として愛されたい人が女性の身体をもちたいと思うのは当然です。その逆もまた然り。その気持ちが何となくではあるものの理解できるために、ジェンダーという言葉、また性別違和(性同一性障害という病名は言い換えられることになりました)というものが存在することに納得がいきます。

因みに、性同一性障害は身体の性とジェンダーが反対である人にしか当てはめられませんでしたが、性別違和は身体の性とジェンダーとの間に違和感をもつ人全てに当てはまる概念です。

 

以上、ジェンダーについて、書けることを書いてみました。

 

※このブログ全体そうですが、異論は認めます。良ければコメントしてください。

 

上手く自分の考えていることが文章になっていないー!って感じてしまう。今まで一人で考えてるときはそういう上手い言葉にならない場合があっても、自分だけの世界だからいくらでもごまかして、ぼやかして納得できてたのに…。

めちゃくちゃ悔しいけど、そういう部分を見つけ出して体系を作ることが目的だから、この苦しさは無くてはならない。

 この一記事を書くのに2日、5時間程度は費やした。しかも寝かせてやっととりあえず読める程度にはなってるはず…。